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会計人物伝

第6回 レイ・クロック(マクドナルド創業者) ~負債とハンバーガー~ 

プロローグ~マクドナルドとの出会い

 1954年のある暑い日のことでした。カリフォルニアの片隅の町に、シカゴから一人の男がやってきました。業務用ミキサーのセールスマンだったその男は、彼が販売しているミキサーを使って大繁盛しているレストランがその町にあると聞き、それを自分の目で確かめるためにやって来たのでした。

 男は店の前に車を止め、車中から様子を観察することにしました。すると開店後数分で、早くも数台の車がやってきました。そのうち車はひっきりなしにやって来るようになり、あっという間に駐車場を埋めていきました。
 店の方を見ると、カウンターの前に行列ができていました。そして、その行列は途切れることがありませんでした。カウンターの上では、8台も並んだ彼のミキサーが、休む間もなく稼働していました。

 男は車を降り、駐車場から店内を見て回りました。清潔な身なりを保った従業員達が、テキパキと動きまわっていました。駐車場にも店内にも、ごみ一つ落ちていませんでした。数人の客に話を聞いてみました。味もサービスも、評判は上々でした。

 これは最高のビジネスになる―男はそう直感しました。その日のうちに店主と面会し、事業について詳しい話を聞きました。直感は、確信へと変わりました。翌日、弁護士が呼ばれて必要書類が作成され、男は店のチェーン展開に関する権利を手に入れました。

 男の名はレイ・クロック。そして、店の名前はマクドナルド。世界118の国と地域に進出し、30,000以上の店舗(*注1)を持つ世界最大の外食産業が、成長への道を歩み出した瞬間でした。

 

マクドナルド立ち上げまで

少年期

 1902年にシカゴで生まれたレイ・クロックは、「夢見るダニー」と揶揄されるくらい空想好きな少年でした。しかし、それを頭の中だけで終わらせる少年でもありませんでした。レモネードスタンドのアイデアを思いついた時には、それを実行に移して売りさばくなど、空想を何らかの形で現実の行動に結びつけようとする少年でした。

 中学生になると、食料雑貨店や薬局で働きました。高校1年の時には、働いて貯めたお金で、友人たちと共同で小さな楽器店を興しました。その店は上手くいかず、数か月で閉店することになりましたが、「仕事があればなんでもやってみた」と振り返るほど、働くことに意欲を燃やす少年でした。

 一方で、学業には全く無関心でした。高校2年の時には、学校そっちのけで訪問販売の仕事に熱中していたほどでした。その学年が終わる頃、米国が第一次世界大戦に参戦します。クロックは、学業に戻らせたい両親の猛反対を押し切り、更には年齢を偽ってまで軍隊に参加します。しかし、訓練が終了してヨーロッパ戦線に配属される直前に戦争は終結、クロックは前線に出ることはありませんでした。
 余談ですが、その訓練期間中、クロックらほとんどの訓練兵は、休日になると街に繰り出していました。しかし、一人宿舎に残って絵を描いていた変わり者もいました。その人物こそ、かの有名なウォルト・ディズニーです。

サラリーマン時代

 閑話休題。除隊後、一旦は学業に戻ったクロックでしたが、すぐに装飾リボンのセールスマンとして働きだします。同時に、幼少期から打ち込んできたのでかなりの腕前になっていたピアノ演奏でも、収入を得るようになります。

 結婚を機に飲食店向けペーパーカップの会社に転職しますが、ピアノ奏者としての活動は続けました。早朝から夕方5時半まではペーパーカップのセールスマン、6時から深夜2時まではピアニストとして、文字通り昼夜を問わずがむしゃらに働きました。おかげで、当時爆発的に売れていたT型フォードを現金一括払いで購入できるほどの蓄えを得ます。

 1930年、ペーパーカップのビジネスに将来性を感じていたクロックは、ピアノ奏者を辞め、セールスに専念することにしました。時は大恐慌の時代、ペーパーカップのビジネスもその影響は免れませんでした。しかし、持ち前の積極性に加えて顧客の利益を重視する姿勢が認められ、大型契約を次々に成立、売上を伸ばし、No.1セールスマンとして活躍しました。

独立

 ある時、得意先の一つが、ミルクシェイクを製造するためのミキサーを改良して製品化します。そして、営業マンとしての腕を見込んでいたクロックに、その販売を依頼しました。クロックは、そのミキサーを見て売れる商品だと直感し、早速積極的な営業活動を始めました。

 ところが、勤めていた会社の反応は冷淡でした。ペーパーカップ以外のビジネスを展開することに、不快感すら示してきました。クロックは、会社に大きく失望します。それに加えて、上司に対する不信感を決定的にする出来事などもあり、1938年、クロックはペーパーカップの販売会社を退社、ミキサーの販売代理店として独立しました。

 勇んで独立したクロックでしたが、ミキサーのビジネスは順調に進みませんでした。販売権の買い取りと開業資金の為に背負った多額の借金に苦しんだり、第2次世界大戦の影響で物資が不足してミキサーを売れなくなったりと、困難な状況が続きました。

 戦争が終わると、戦後の好景気に乗って一旦は業績を伸ばします。しかし、1950年ごろから、取引先がミキサーを使った商品の販売から次々と撤退するようになり、クロックはミキサーの営業だけを行うことに限界を感じるようになっていました。ミキサー以外の商売を見つけなければならない―クロックがマクドナルドと出会ったのは、そんな時でした。

ハンバーガービジネス

マクドナルド兄弟のマクドナルド

 マクドナルドという飲食店は、1940年、マックとディックのマクドナルド兄弟によって、ドライブインスタイルのレストランとしてスタートしました。その店は、若者を中心として好調に売上を伸ばしましたが、兄弟はその営業スタイルに限界を感じるようになります。駐車場は常に満杯でしたが、客席数が少ないために売上が頭打ちになることが見えていたからです。

 そこで、1948年、兄弟は営業スタイルをテイクアウト中心に変更して、店をリニューアルオープンします。クロックを感動させたのは、このスタイル変更によって生まれた合理的な経営方法でした。

 その経営方法とは、まず過剰なサービスを控え、メニューをハンバーガー、フライドポテトと数種類の飲料といった最小限に抑えることで、商品を流れ作業で提供します。また、商品を販売するプロセスを簡素化して、微に入り際に渡った商品管理を行います。後に全米各地でオープンすることになる各種ファーストフード店のモデルとなったこの手法こそ、クロックがフランチャイズ展開に将来性を見出し、マクドナルド兄弟と契約を交わした最大の理由でした。

不動産業

 1954年、クロックはマクドナルドのビジネスをスタートさせましたが、始めて数年の間は、ミキサーの営業と並行して行っていました。クロックが当初ミキサーの方により将来性を感じていたこともありましたが、何よりも、フランチャイズ店からのロイヤリティー収入だけでは諸費用をまかないきれない、という事情があったからです。

 この問題を解決したのは、財務を担当していたハリー・ソナボーンという人物でした。ソナボーンは、フランチャイズ・リアリティ・コーポレーションという会社を立ち上げ、ローンを組み合わせたユニークな不動産投資戦略を発案しました。その結果、ロイヤリティー以外の収入源を得ると同時に、矢継ぎ早の新店舗開設が可能になりました。

 また、ソナボーンは、銀行や生命保険会社などから融資を得ると、それを不動産投資、店舗出店につぎ込んでいきました。これにより、マクドナルドは急速に店舗数を増やしていきました。そして、初期の投資による収益を回収できるようになった1963年には、全米各地に1年で110店舗を開くなど、フランチャイズを始めて10年足らずのうちに大躍進を遂げました(*注2)。

本業はハンバーガー

 不動産業のおかげで、マクドナルドは急成長することができました。しかし、どれだけ沢山の店舗を抱えていても、肝心のハンバーガーが売れなければ収益は上がりません。ロイヤリティーも店舗の賃借料収入も、マクドナルド本社に入って来るお金はフランチャイジーの売上や収益から賄われるからです。この点についてクロックは、不動産事業の重要性を認めながらも、会社の本業はハンバーガーレストラン事業であることを常々強調してしました。

 その本業の面で、マクドナルドを成長させるために必要不可欠であると、クロックが認識していたことがあります。それは、店長やフランチャイズオーナーの個人的な力量に頼ることなく、どの町のどのマクドナルドに行っても均質なサービスを受けられるようにすることでした。そうして初めてマクドナルドのブランドが確立し、リピーターを確保することができるからです。

 そのため、マクドナルドの経営は、一個のハンバーガーの調理から、店舗設計、流通、そして出店戦略に至るまで、極めて合理的に練り上げられたシステムによって固められました。また、そのシステムを担う人材を教育するために、ハンバーガー大学と呼ばれる教育施設が、1961年というかなり早い段階で設立されています。クロックは、そのようなシステムを作り上げるための投資にはお金を惜しみませんでした。

本当に大切なこと

 このように、不動産業と揺るぎないシステム、この二つがマクドナルド成功の理由であることは間違いありません。しかし、それが全てではありません。クロックは、マクドナルドのスローガンとして、「ビジネスは一人では成功しない」とし、「成長の源泉は個々の店長やオーナーのやる気次第だ」とも言っています。そして、フランチャイジー達に対して、次のような言葉を残しています。

やり遂げろ―この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う―才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う―恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世にいる。教育も違う―世界には教育を受けた落後者があふれている。信念と継続だけが全能である。

 クロックは、数多くの成功をつかみましたが、それ以上の挫折と失敗を経験しています。それでもあきらめずに進み続けたからこそ、50歳を超えてから最大のチャンスをつかみ、それを成功に結び付けることができたのです。そのことを考えれば、上の言葉は、成功を望む全ての人が心にとめておく言葉である、と言えるのではないでしょうか。


注1:2010年11月現在。日本マクドナルドHPより。

注2:ビジネスが軌道に乗り、急速な発展を遂げても、実際はキャッシュフローに苦しんでいたようで、給料の支払いが滞りそうになったこともあったそうです。しかし、当時は費用に関する会計基準が緩かったこともあり、不動産諸経費や建築諸経費を一定期間資産化するといった手法を使って、純利益を示していました。クロックらはそれを「発展的会計」と呼んでいましたが、株式上場する際に問題視され、過去の財務諸表を全て作り直さなければなりませんでした。

参考書籍

伝記
「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者」レイ・クロック、ロバート・アンダーソン共著 (プレジデント社) <AA>

参考サイト

Wikipedia レイ・クロック
Wikipedia マクドナルド

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